中国レポート  No.86 2021年9月

今年の8月に開かれた共産党中央財政経済委員会第10回会議で、習近平が提起したある方針が物議をかもしている。それは「共同富裕」。皆一緒に豊かになるという意味だ。習近平はこう述べている「共同富裕は社会主義の本質的要求で、中国式近代化の重要な特徴で、人民を中心とする発展思想を堅持し、質の高い発展の中で共同富裕を促進しなければならない」。「共同富裕は全人民の富裕であり、人民大衆の物質生活と精神生活が共に豊かになる事で、少数者の富裕でもないし。画一的な平均主義でもない」。
もちろん、皆が一緒に豊かになる事については、誰も反対していない。しかし、問題はそう単純ではない。毛沢東時代の中国は、「人民はみな平等、貧しい時は皆貧しく、豊かになる時は皆一緒に豊かになる」、これがごく当たり前の考え方だった。1970年代末、鄧小平が「改革・開放」を始めた時、提唱したのは「先富論」だった。これは「能力のある者、やる気のある者は、先に豊かになれ」というもので、それまで悪とされていた「競争」の論理を経済面に取り入れた。競争は人々の積極性を生み出し、欲望を解放し、巨大な生産力を生み出した。この延長線上に1993年に中国が宣言した「社会主義市場経済」化がある。いわば政治は社会主義、経済は資本主義、水と油を一緒にしたようなものだ。市場経済の基礎は自由競争である。自由競争は勝ち組を生み、同時に負け組も生む。必然的に格差が生じる。この格差を認め、経済発展を促したのが「先富論」であった。日本以上に競争の激しい中国では、富む者はどんどん富み、多くの「億万長者」が現れた。その一方で、競争の中での「負け組」は、飢えるぎりぎりの生活を強いられていた。当然最下層からは、不平不満が湧き出てくる。このまま格差が拡大すれば、その不平不満は政府へ向けられるかもしれない。「共同富裕」論が提起された背景の1つである。
習近平が「共同富裕」論を提起したもう1つの背景は、貧困層の撲滅。世界基準の「絶対貧困層」は、1日の収入が1.9ドル未満、月収にして57ドル(約5960円)だが、中国では農民1人当たり1ヶ月の純所得が2300円以下、年間2万7600円以下を「貧困層」と呼ぶ。2015年、中国政府は2020年までに、つまり第13次5か年計画(2015年―2020年)で、この貧困層を撲滅すると公約した。今年の全人代では「貧困層の撲滅は成功した」と宣言した。確かに、貧困層は無くなり、中所得層が厚くなり、中国の言う「小康」(ややゆとりのある)社会が実現した今、格差の問題に正面から取り組む環境が整ったという考えである。習近平指導部が、格差是正に本腰を入れ始めたのは、それだけ余裕が出てきたと見る事が出来る。
3つ目の背景は、私企業の巨大化がもたらした、政府への無言の圧力である。中国は市場経済の下、私企業が育っていった。その中の一部は、時代の波に乗り、急速に肥大化した。例えばIT企業で、米国には「GAFA」(Google、Apple、Facebook、Amazon)があるが、中国には「BATH」(Baidu、Alibaba、Tencent、Huawei)がある。このBATHは、中国躍進の象徴であるが、その一方で、膨大な情報を握り、強引に中小企業を飲み込み、独占性が強くなっていった。またAlibabaやTencentのように、金融や決済事業へも進出し、アリペイ(アリババ)、ウイチャットペイ(テンセント)などが広範囲に利用されている。これらの巨大私企業が、膨大な個人情報を含む情報を握り、更に金融にまで影響を及ぼすようになったことは、政府にとって脅威となった。習近平は「金融は現代経済の核心で、発展と安全に関わる」と述べている。金融は絶対的に、政府のコントロール下に置かないといけないという事だ。「共同富裕」論には、BATHのような巨大私企業を抑制する目的もある。
もちろん、中国企業の主力は国営企業であるが、巨大化した私企業の力も侮りがたい。2019年の時点で、中国企業主要500社の、トップ3は中国石油化工、中国石油天然ガス集団、中国国家電網で、3社とも国営企業だ、この500社の中の「戦略的新興企業100強」というのがあるが、このうちの30社は私企業中心のIT企業が占めている。急成長したIT企業は、物流、通販、金融などにも進出を始めた。膨大な情報を持っているのが強みである。政府にとっては、頼りになる面と、脅威になる面があるだろう。因みに、中国と米国の「トップ500社」を比べると、売り上げ総額、資産総額で、中国企業は米国企業の87.1%、89.5%にまで迫っている。2020年の世界時価総額ランキングトップ10では、アリババが7位、テンセントが8位に入り、9位のフェイスブックを抜いた。ファーウエイは株式上場していないので、ここには登場していないが、売上高はアリババとテンセントの合計を上回っている。
習近平は次のようにも言っている、「中所得層の比重を拡大し、低所得層の収入を増やし、高所得を合理的に調節し、違法な収入を取り締まり、中間が大きく、両端が小さい楕円形の分配構造を形成し、社会の公平・正義を促進し、人の全面的成長を促進し、全人民が共同富裕の目標に向かって着実に邁進するようにしなければならない」。更に続けて、「過度の高収入を合理的に調節し、高所得層・企業による、より多くの社会還元を奨励する」。
この習近平の言葉で、高所得者への一斉脱税取り締まりが始まった。特にアスリートや芸能人は、脱税が当たり前的な風潮があった。芸能人は知名度が高く、影響力があるので、見せしめのための狙い撃ちにあった感がある。例えば、先月上海税務局は、有名女優の鄭爽が脱税したとして2億9000万元(約50億円)の罰金を科した。同じく湖南省の有名テレビ司会者は、脱税とセクハラで、全ての番組を降ろされた。また女優の趙薇は、株の不正取引で、映画界から追放された。目下芸能界は戦々恐々である。芸能人は出演料、CM、講演などで高収入を上げているが、大手企業のイベントなどに呼ばれると、法外な謝礼を受けるが、ほとんど収入として申告していないようだ。教育界も同じような問題がある。有名大学の看板教授は、講演1回に100万円、200万円は当たり前、そのため授業そっちのけで、講演に飛び回っている者もいるようだ。こういう人たちが、今回狙い撃ちに遭っている。アリババは、独占禁止法違反で3000億円の罰金を課せられた。アリババ傘下の金融会社「アントグループ」は、上場停止に追い込まれた。
「社会還元」競争も始まっている。高所得者、景気の良い企業は、貧困者や障害者救済、過疎地の教育振興などに、先を争って寄付を始めた。テンセントは1000億元(約1兆7000億円)の寄付を申し出た。アリババも2025年までに1000億元の寄付を決定、スマホで有名なシャオミー(小米)の董事長は、個人で144億元(約2448億円)の寄付を、「tik tok」を運営する北京字節跳動科技(バイトダンス)の創始者張一鳴は、教育基金に5億元(約85億円)の寄付を申し出た。
北京の一般市民は、これらの動きをおおむね歓迎しているが、学者の中には心配する声も少なくない。それは、不正蓄財は論外だが、努力して、激しい競争に打ち勝って成功した人たちが委縮してしまうという。大金持ちに対する妬みもあり、「金持ち叩き」は大衆の喝采を浴びる。しかし、行き過ぎると、事業家や企業の積極性、モチベーション、イノベーションに悪影響を及ぼすのではないかとの懸念だ。
ある学者は次のように言っていた。これは「社会主義市場経済」という制度の矛盾かも知れない。経済が立ち遅れ、国民の所得が非常に低い時は、この制度が非常に良く機能した。しかし、経済、所得レベルが一定の高度に達した時、「格差」という矛盾が突出してきた。これを強引に解決しようと思えば、市場経済とぶつかり、どこかに歪みが生まれる。市場経済を維持しながら、事業家や企業の積極性を損なうことなく、格差を是正するのは至難の業だ。
中国が「改革・開放」を通じ目指すのは、米国が期待した資本主義化ではない。あくまでも「中国の特色ある社会主義」なのだ。市場経済の結果である「格差」と、社会主義本来の理念である「平等」、この矛盾をどう処理するのか、習近平体制は非常に難しい問題に取り組み始めた。 (2021年9月28日)(止)